解説すると、母はもともと熊本出身だが父は転勤で家族で九州に来ただけ。だから我が家に九州の男尊女卑思想を構築したのは母であり、私はそれを内在化して育った。母はよく本を読み、活発で独立心があって、誰よりも男尊女卑を憎んでいたはずのに、結局娘もその思考パターンから脱却できなかった。高齢両親の元に生まれて二十歳で父親が定年退職だったので、ほとんど奨学金と研究員になれたのとで大学院まで進んで、今は自分の給料で家のローン払いながら母と二人暮らし。それでも自分は自分の人生失敗した、親に申し訳ないと思っている。独身で子供がいないというだけで。
九州にいた頃は部活の飲み会で女子が裏方かお酌だけで、宴席に座らないのも男尊女卑だと思ってなかった。そして自分の中にそんな価値観が内面化してしまっていることも気づいてなかった。実際のところ、女子にイジメられて女子怖かったので、男性の方が話しやすいと思ってたし。
九州にいた頃の恩師で思い出すのは男性ばかりで、みな人格的にバランスの取れた素晴らしい人達だった。今思うに、自分は人生目標として、自分自身が主体として研究するイメージがなくて、お茶の水博士みたいな優秀で人望があって信頼できる男性の博士を支える助手、みたいなのを思い描いてた。進学した先でも信頼できる恩師(全部男性)に恵まれて順調に博士号取ってしまったので、うっかりそのイメージのまま、男性の教授の下で助手として働き出してしまって、詰んだ。その点では、歪んだ構造を無批判に受け入れた原因は自分にもある。
念のため言っておくと、その男性教授は九州の人ではない。歴史ある家系の末裔でいらっしゃったそうで、被害者目線でなくても、まあかなりプライドの高い方だったと思うけど、まあ職業上ある程度プライドは必要だったろうし、拗らせなければプライドは持つべき。私も持つべきだったのだ。とにかく、どんなにがんばっても努力して気配りしても、私はその男性上司が満足できる助手になれなかった。苛立たせることしかできなかった。役に立つが決して出しゃばらず三歩下がって控えめに陰ながらフォローしていつも美しくピンクとか着てロングヘアーで女性らしい清楚なメイクで、ってアホか。教授のプライベートな趣味にもつきあいつつ、ほどよいところで教授のお眼鏡にかなった男と結婚して、教授の仕事の邪魔にならないタイミングで子供生んで育てて、ってアホか。『急に妊娠したなんて言われるとびっくりします。困りますから、子供を作ることになったら半年前から言っておいてください』って、アホか。そんな都合のいい話あるわけない。私の失敗は、九州の男尊女卑を内面化していたためにアホかと言えなかったことだ。
本気で教授の願望に応えようとしていて、自分を見失ってしまった。もともと矛盾した願望なのだから実現できるはずがない。そんな都合のいい"女助手"はオトコの妄想の中にしかいない。アホか。
教授と共同研究とはいえ、自分の解明すべきテーマをもってフィールド調査をして、学生と野外に行き、分析機器を扱い、講義して、学生実験をこなして、熱意を持って高度な仕事をしようと取り組めば取り組むほど、教授にとって邪魔な存在になってしまっていた。未だにどう振る舞えば教授を満足させられたのかわからない。たぶん無理だ。その葛藤は教授ご自身に解決してもらうべきだったのだ。当時、私にはそれがわからなかった。仮にも教授にもなる人がそんな幼稚なメンタリティを部下に押し付けるなど想像もできなかった。その教授から独立して10年以上立つのに、いまだになぜ"失敗"したのかどうすべきだったのかと後悔するし罪悪感ある。罪悪感の一端に、その教授を紹介してくださったのが九州時代の恩師だったからだ、と気づいて愕然としたのが一昨日の早朝の話。卒論を一年間指導してくださった、当時助教授の先生。
人格的にも素晴らしい方で本当に尊敬している。その方の期待を裏切ってしまった。顔をつぶしてしまった。申し訳ない。退官されたのに面目なくてご挨拶にもいけない。そう考えている自分に気づいた。当時、その先生は30代後半。毎年たくさんくる卒論生の中でもひとりだった。中でもひときわ地味で無口で暗い、一日中古い実験室でグレゴリオ聖歌とかブルガリアン・ポリフォニーとかを小さいボリュームで流しながらひとりで実験している、ちょっと不気味な女子学生だった。スレスレの成績で4年生になった落第生。そんな地味な卒論生が進学先のよその大学で学位取ってどこかポスト無いかと相談して来て、とまたま学会で顔見知りの教授が今ちょうど助手公募してるよ、研究内容ぴったりだしどうかな、とアドバイスした。その親切を、私は自分の人生が失敗したきっかけだと考えてしまっていることに気づいた。
愕然とした。自分も学生に親切なつもりで気楽な助言をぼんぽこしてしまっている。先生がああ言ったから信じたのに、なんて恨まれても困る。自分の人生は自分で責任を持ってもたないと。だから私はあの時、教授に、"そのご不満は教授ご自身の問題で、私には解決できません"と言うべきだったのだ。もっと言うと、十代辺りで『親の期待なんか知らん。アホか。やってられっか』と暴れてキレるべきだったのだ。反抗期もなく、大人の期待を裏切らないよう、ずっといい子でやって来て、働き出した時に新しい"保護者"として、男性上司の期待に応えるべくご機嫌損ねないよう努力して、自滅した。私の両親は私の進路に一切干渉しないでビンボーなのにやりたいようにさせてくれたから、なんというかイジメられっ子の"過剰適応"なんだろう。ここならいても怒られない、座っててもいい場所を探して隅っこに隅っこに移動した挙げ句の今の場所に来た気がする。
でも結局は、人間やりたいことしかやらないし、やれないことはできないし、結局やりたいことをやって来て、今、やりたいことを仕事にしてやりたいようにやっている。そんな自分の人生を失敗だと思っている。期待に応えられず面目ないと思っている。そう考えてしまうのは、無責任だし、今までお世話になった人達に失礼だし、実はものすごくズルいんじゃないか、と気づいたのが一昨日早朝だった。調査旅行のダム湖の畔のちょっと傾いたカメムシだらけのコテージで。自分の人生自分で引き受けないとな。いい年なんだから。
自分の中の男尊女卑、誰かの、特に年上男性の機嫌を損なわないように、男性の期待の応えようとする差別意識を、意識的に取り除いて矯正していかないと、今、私は年齢的にも職業的にも若い人に助言を与える方の立場なのだから、私が抱えてしまった呪いは、私で断ち切らないと。
ああそうだ、今、気がついた。最初の破綻は私が結婚したことだった。結婚したことを上司の教授に責められたことで完全に混乱してどうすべきなのかわけらなくなった。"いい子"の使命として、ちゃんとした仕事について結婚して子供持って、とひとつずつクリアすればいいんだと信じてたのに。勝手にこうすべきと思い込んで、勝手に裏切られた気持ちになって、どうすればいいのかわからなくなった。ワガママだと責められて不本意だった。自分の選択をすべて人のせいにしていたのだ。もっと早い時点で自分の人生だからやりたいことやる、と考え方変えるべきだった。
でもね、言い訳するわけじゃないけどね、今の日本で先生や親の言うことをよく聞く"いい子"の女子は自分の人生は自分で決めると主張するのはワガママだと覚え込まされてるから、特に九州ではね、女子は自分自身の味方になれないんですよ。