3、4歳までは写真がいっぱいある。
まあ、親もうれしくてたくさん撮っただろうし。
4歳で弟が生まれたので、赤ちゃんの弟と写った写真はけっこうある。
でも6歳ぐらいの時には、はっきりもう写真が嫌いになっていた。
つまり物心がついて以来ずっと、自分で自分がみっともないと思っていたのだ。
何でだろう。
客観的に見て、うぬぼれでも卑下でもなく、自分の外見は平均ぐらいだと思う。
特別美人でもない代わりに特別ブスでもない。
体重は平均を超えているが、薬の副作用が起こる前はややポチャぐらい。
6歳からデブだったわけではない。
つまり外見の問題ではなく、自分で自分はみっともなく、人から粗末に扱われても仕方ない、当然だと考えていた。
そんなイジケた了見だから、小学校でも中学校でもいじめられた。
高校時代はなぜかそういうイジメられっこの女子が周囲に集まっていたのでイジメられはしなかったけれど、劣等感は強烈に持ち続けていた。
イジメから解放されたのと、受験から解放されたのとで、高校の時は多少、心身症気味だったかもしれない。
廊下で急に目の前が見えなくなったり、涙が止まらなくなったりして、保健室に行ったことが何度かあった。
保健医さんは”過剰適応”というモノじゃないか、と心理検査を勧めたりもしてくれたが、怖ろしくて逃げ回った。
自分の中でもて余した不安は小説に書いて、何とか昇華させていた。
そんな青春。
外見のせいではなく、自分は女としては欠陥品だと信じ込んでいた。
だから片思いの男の子はいても、告白どころか近づくこともできなかった。
5、6歳の時に何があってそう思い込むようになったのか定かではない。
母は弟が生まれたせいで、親の関心が薄れたせいでひがんでいたんだろうと指摘する。
まるで私のその憎悪のせいで、弟が死んだのだと言わんばかりに。
弟が未熟児だったので、その世話で母が大変だったのは確かだ。
経済的に余裕がなく、公団住宅の隣近所の家庭に対して母が引け目を感じていたのも、今ならわかる。
子供は与えられたものに疑問を抱いたりしないし、不満など持たないものだが、母はやりくりが大変で、父の収入に不満だし、家事や子育てに非協力的な父をずっとうらんでいたらしい。
いたらしい、という推測ではなく、実際のところ、母から直接そう聞いた。
10か11の時には母のグチの聞き役になっていた。母の言いたいことが理解できるずっと前から、私は母が内心秘めた怒りを感じとっていたと思う。
父は4、5歳まで私を溺愛していた。その後も山だの海だの私と弟をあちこち連れて行ってくれたし、よく可愛がってもらったと思う。年の離れた兄は、家族のドライブにあまり同行しなかったけれど、やっぱり私たちをよく世話してくれていた。
結局、私は父や兄を間に挟んで、母のライバルにならないように必死だったんじゃないかと思う。
父や兄の歓心を惹かないように、縮こまっていた。
自分は女として欠陥品だから、私を敵視しないで。私はあなたのものを奪ったりしない。
そういうアピールを無意識でしていたような気がする。
それが習い性になってしまった。
40代も半ばになって今でも、その呪縛から自由になれない。
こんなこと、母に指摘してももちろん否定するだろうし、自分の凛気に気付いてもいなかっただろう。
とにかく今でも私は自分に自信が持てない。
謙遜でも卑下でもなく、自分に価値があると信じてないところがある。
社会的にはそれなりに尊敬される職についているわけだが、自分ではそれで自分をエライと誉めてやれない。
まあ、母親がそれを評価しないからなんだけど。
いつも私をイジメたのは女の子だったから、女子が少なそうな方面を選んで進路を選んだ結果、こんなとこに来ちゃった感がある。もちろん好きでしたことだけど、イマイチ、自分の仕事に誇りを持てないのである。
そんなわけで、私にはロクな写真がない。
でも最近は、今自分に何かあったら遺影がないな、それは困るな、と思う。
弟の葬式の時に、やっぱり適当な写真がなくて苦労したからだ。
だから最近は努めて、写真に写ろうと思ってはいる。
自分では不本意な写真だろうが、満足な写真だろうが、人にとっては同じなんだとわかってきたからだ。
どんな写り方をしていようと私は私。それが私らしい姿なのだ。
そろそろ、ありのままの自分を認められる人間になりたいよな、と思ってはいる。
思ってはいるが、なかなかままならない。ま、こういうことは思ってどうにかできることじゃないから仕方ない。
この辺の話はどっかに何度か書いた気がするんだが、探しても見つからないから書いてみた。
夜中に書いた心情吐露日記などロクでもないけど、ま、これもセラピーの一環だと許すことにする。
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