categoryスポンサー広告

スポンサーサイト

trackback--  comment--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
category掌編ころころ

セミコロン・ビター・スィート

trackback0  comment1
 ドアを押し開けると、気が付いていなかったドアベルが乱暴な音を立てた。
 私の無作法が、店内の静謐な空気を破ってしまった。かまうものか。さらに乱暴な靴音を年月を刻んだであろう木の床に響かせ、私は入り口のステップを越えた。
「いらっしゃいませ」
 初老のマスターは私のすさんだ空気にも負けずに、軽やかに声をかけた。そちらにちら、と目を向けただけで、どすどすと奥に進む。

 ここだ。この席。
 結婚する前、働いていた頃、私はいつもここに座ってくつろいだものだ。控えめなクラシック音楽。ほとんどアンティークのような内装。あふれる観葉植物。いつもブラック・コーヒーを飲みながら、多少の罪悪感を覚えつつ、ガトー・ショコラの誘惑に溺れた。
 この席に2時間でも落ち着きながら、小さなノートに小説を書いていた。何度か投稿して、それなりの評価も得た。受賞記事の後ろに小さな活字で乗っていた私の短編小説に、気持ちのこもった手紙をくれたのが……今の主人だ。

 何年ぶりだろう。7年? 8年?
 何だか何もかも変わってしまった。結婚しても、仕事を続けながら小説の執筆を続けられると思っていた。
 まず、主人の勤めていた会社が吸収合併されて、人員削減に合い、収入のぐっと落ちるポストに回された。それでも、私の給与が安定していたので、どうにかなる、と主人を励ました。ところが、義父が脳溢血で倒れて、命は取り留めたものの要介護。義母と二人で何とかがんばっていたのに、彼女も雨上がりに転んで骨折した後、あっけなく寝たきりになってしまった。これで、フル・タイムの仕事を続けられるわけない。

 あっという間に、出口のない穴に落ち込んでしまった。罠のようなものだ。誰にも助けてもらえない。目の端に涙がにじみそうになる。

「ご注文は?」
「ああっ、アメリカン、お願いします」
「ガトー・ショコラもいかがですか? お好きだったでしょう?」

 私はぽかんとマスターの顔を見上げた。覚えているとは思っていなかったのだ。

「味は変わっていないと思いますよ」
「じゃっ、じゃあ、ガトー・ショコラも」
「かしこまりました」

 シルクのウェスト・コートに蝶ネクタイのマスターがにこやかに歩み去った。

 毒気を抜かれて、改めて店内を見回す。本当だ。変わっていない。この香りも、この静かな空気も、洞窟のような居心地の良さも。



「お待たせいたしました」

 コーヒーとケーキはおそろいの白磁の器に載って供された。金箔の縁。淡い紫がかった青の地模様、落ち着いたグレーの縁飾り、金箔の縁飾り、と三重の色模様が描いているのは……細かい細かい花鳥風月。淡い色のシルエットでなぞられた、花々、月、蝶にトンボ、渡る雁。

 この皿の中だけに、物語がある。いつも飽きずに眺めた。お店の壁全体がコレクション・ケースになっているのに、いつもこのセットを指定していたのだ。
 そして、この模様から空想を紡いで書いた小説が……あの受賞作だった。

……ここから始まったんだわ。

 でも、元には戻れない。コーヒーは甘く香り立ち、ガトー・ショコラは記憶していた通りの味だった。口の中でほろりと崩れて、質の良いチョコレートの苦味が広がったとき、涙がこぼれた。

……でも、元にはもどれない。

 あの小説を書かなければ良かった、とか、主人に出会わなければ良かった、なんて思えない。大切なものをたくさんもらったもの。

 温かい思いも、苦い思いも。

 レジに立つと、マスターがにっこり笑った。
「次回作を楽しみにしています。それが何年先でも」
 私はすぐに答えられなかった。
「小説を書くのにいいことは2つ。いくつになっても書けること。そして、刻んだ年月がそのまま作品に反映されること。今のあなたはきっと素晴らしい小説を書けますよ」
「……ええ。そうですね。きっと書くわ。何十年先かわからないけど」
「お待ちしています。いつでも、ここにほっとしにいらして下さい」
「ありがとう。また来ます」

 ドアベルを軽やかにカロンカロンと鳴らして、明るい初秋の空気の中に出た。
 そうだ。どこでも書ける。義父のベッドの横だろうと、義母の薬をもらう待合室だろうと。今ならもっと違うものが書けるわ。

 例えば、花鳥風月文様の美しい鳥篭の中でぬくぬくとまどろんでいた娘が、目を開けて見つけた世界……冒険物語ね。彼女は最後に何をつかむのかしら。


スポンサーサイト

〔テーマ:小説ジャンル:小説・文学

 
寒くなったねぇ
今回はあやかしでも、SFでもないんだ。1拍手









        
 
http://hadukipiper.blog42.fc2.com/tb.php/194-f8150c0a
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。