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category墓守り娘日誌

ダディ・コンプレックス

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 30代後半からずっと母と接するのがしんどかった。公私ともにいっぺんにいろいろあって堅実かつ勤勉に築いてきたはずの自分の人生があっさり足元から崩れてしまった時、つまり最早両親に自慢されない娘という境遇に陥った時から母と顔を合わせるのがつらくなったのだ。父とは別にそんなことはない。母とだけだ。
 体調を崩しても実家に帰りたくなかった。仕事を休んだ状態で四六時中、母親と顔をつきあわせていなくちゃならないなんて考えただけでぞっとした。そんなの療養になるわけない。実家から父と母が順番に自分の面倒を見にしばらく出て来てくれていたことがあった。父といる間は気持ちが楽だったが、交替して母が来るとしんどかった。別に具体的に何を言われたとかされたわけでもない。ただ、自分は母親に無条件に容認されているわけじゃない、とひしひしと感じていただけだ。
 余所に嫁に行くか自分の稼ぎで食べていけるという、実家、というより母の家庭に迷惑をかけていない状態の間だけ、自分は屈託なく母と対することができた。まるでもらわれっ子の心理だが、疑おうにも自分の外見は父そっくりで声が母そっくりなのだ。

 その息苦しさから解放されたのはこの数年のこと。それには主に3つの理由がある。

 自分が復調して仕事の基盤が少しずつ回復し自信を取り戻せたこと。そして友人が増えて自分の場所が作れたこと。もう実家に迷惑をかけなくても済む、という状態になったのが第一の理由だ。
 次の理由は、母が病気になったこと。癌と脳梗塞が立て続けに来て、どちらも克服して自分で家事ができる状態にリハビリしたものの、気丈で甘えを見せたがらない母がよろめいて私に支えられた腕を振り払わなくなった。
 最後の理由は父が亡くなったことだ。つまり、母と私は父を間に挟んでライバル関係にあったわけだ。

 父は4月の始め、すっかり入院支度を整えて自分で病院に行った。主治医は”それでご本人が安心するなら2、3日入院してちょっと検査してみますか”と言ったそうだ。なので家族もみんな”またまた、お父さんは大げさなんだから”と誰も取り合わずに笑っていた。父はその2年ほど、息苦しい、乾痰が絡む、と訴えていたのに。思いつく限りの病院に頻繁に通っていたが、原因ははっきりしなかった。
 母は自分に対するあてつけだと断じていた。
「私がガンだの脳梗塞だので入院したものだから、自分の方が重病人だってアピールしたいのよ。かまって欲しいのよ」
 そして兄も私もその見解に乗っかっていた。もともと病院と薬が好きで、咳ひとつ、胃もたれひとつで大騒ぎして80年余。だからいつものオオカミ少年だとみんな思っていた。父が入院した時、誰ひとり父を気遣って心配する家族はいなかったのだ。

 3日めに意識を失い、機械につながれたまま徐々に多臓器不全に陥って亡くなった。肺炎である。最近の高齢者男性に多い死因だ。血中酸素濃度が保てないため呼吸器からはずすわけにいかず、意識がある状態で機械で強制的に呼吸されるのはしんどいため、薬で眠っていた。

 20日間、集中治療室に通った。機械につながれて心拍数120を保たれるのは、24時間一睡もせず、点滴をしながら険しい山登りを無理強いされているようなものだ。20日間、よくがんばったと思う。寒さもつらさにも弱い、根性なしの父のことだ。もし意識があって自分に選択権があったら、3時間で音を上げたかもしれない。チューブを外してくれと、泣いて頼んだことだろう。

 父が入院した頃、母の体調も最悪だった。すぐよろめいて何もないところで転ぶ。冷蔵庫を開けて、何を取り出すんだったか思い出せず扉を開けたまま放置するのでピーピー警報が鳴る。ヤカンを火にかけて忘れるので空焚きして火災報知器が鳴る。
 もともと車が運転できないので、決まった場所をバスで往復する以外、ちょっとした買い物も遠出もすべて父の運転に頼っていた。父の入院先の病院に、バスを乗り換えて自力で行くには当時の母はぼんやりし過ぎていた。バス停を見つけられずに迷ったり、降りるべき停留所を乗り越して迷ったりすることが容易に想像できた。新年度が始まったばかりの職場をかなり長期間休んで実家と往復を繰り返し、私は父の看病をするというより母の付き添いをしていた。意識の無い父の顔をガラス越しに1、2時間見ている以外、私たちにできることはない。とは言え、自宅にいてもいつ悪い知らせがくるかわからずぐっすり眠れない。
 朝起きたらお湯を沸かし、お仏壇用と生きた人間用にお茶を淹れる。味噌汁を作って朝食を用意する。庭の手入れをして、仏壇用の花を切る。昼食を作って食べる。午後の面会時間に合わせて病院に行く。帰り道に買い物する。毎日ちょっとずつ違うルートで病院から戻ってちょっとだけ冒険する。夕食を作って食べる。TVを見る。11時消灯。

 20日間、父が24時間寝ながらムリヤリ山を登らされている間、私は24時間母と過ごしていた。

 そして長年のマザー・コンプレックスを克服してしまった。
 我ながら性格悪いなあと思うが、自分が母の面倒を見ていて役に立っているという状況になって、ようやく楽な気持ちで一緒にいられるようになったのだ。そして最早、私たちには取り合うべき父がいない。弟もとっくにいない。兄はもとより母専属なので、母公認の時しかお世話にならない。

「私に何かあったらこの子のことだけは頼むわね、ってお兄ちゃんに頼んでおいたから」という母の言葉は、自分のものを娘に貸し出してやるという寛大さが感じられる。この言葉ひとつで、多分事実上遺産はすべて放棄なんだと思う。別にそれでいい。

 母は父の亡くなった後、そのまま私のところに来て3ヶ月ほど静養した後、実家に戻った。遺品や相続手続きなんかを片付けながら父に対して怒ってばかりいた。父の書斎から高価な画材や陶芸用の釉薬がごっそり出て来たからだ。”私はグラム3円安い豚肉買うのに2キロ向こうのスーパーに行ってたのに。この5年ものの帽子だって500円なのに。私も陶芸を10年やってたのに、ひとしずくだってこの釉薬を使わせてくれなかった”。電話する度に2時間でも父の悪口を言うので、”お母さん、よくそんなんで私とか兄ちゃんに結婚勧めるよね”と切り返すともにょもにょよくわからない返答をする。
 1年経ってようやく、”私が悪かったのかねえ”と言い出した。”何も言わずに耐えていたのが良くなかったのよね。もっと自分の気持ちをはっきり言えば良かった”なんて言っている。どうやら母の中のストーリーが進展して、”お子ちゃまな暴君に健気に耐えて家族を支えた母親”というところで落ち着いたらしい。それはもう、どうでもいい。

 去年に続いて今年の夏も3ヶ月、母は私のところに来た。一緒に買い物し、料理し、山に花を見に行く。TVを見て笑う。猫を見て笑う。

 とにかく、父が20日間がんばってくれたおかげで、今は女2人仲良く暮らして行けているのだ。お父さん、ありがとう。
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