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category墓守り娘日誌

母の冷蔵庫・後日譚

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日吉神社3

 正式に住民票を移して母と同居し始めて1年余。当初は家を改造して完全バリアフリーにしようかと意気込んでいたが、結局そのまんまの内装で、そのまんまのライフスタイルで思ったよりずっと気楽に暮らしている。
 父が亡くなって4年。その半年ほど前に軽い脳梗塞の発作を起こした母は最悪の状態で父を見送り、そのまま私のうちと実家を行ったり来たりしていた。いろいろなだめたりすかしたりして、半ば強引にこちらに連れて来てしまった。
 我が家の最大のバリアーは2匹の猫である。いくら床をバリアフリーにしても足元をにょろにょろして人間を転ばそうとする。加えて、母の寝室を猫禁止にしている。一時期母が気管支炎の症状があったので、猫を締め出して猫が齧ると中毒を起こす鉢植えを全部持ち込んだ。有毒なのに猫はその植物が大好きなのである。そして猫は閉まっているドアが大嫌いである。結果として隙あらば母の寝室に入ろうとする。毎度激しい攻防が繰り広げられる。もうひとつ、ベランダはこちらが監視できる時しか猫を出さないようにしている。飛び降りたり隣に逃亡したりすると困るからだ。ちょっと生ゴミ出したり、ちょっと水遣りしたりするなら猫を出さないように出入りしないといけない。もちろんこれも攻防である。絶妙な重心コントロールを必要とする高等テクニックだ。

 ひとり暮らしを始めて20年余。このうちに越して来て10年余。全てのスペースを自分のためだけに使って散らかし放題だったのを、人手を借りて何とか母の寝室と居間は確保したものの、あっちもこっちも要らんものが積んである。カーペットはヨレヨレだから足を取られるかもしれない。ちょっとした段差でつまづくかもしれない。積んだ荷物の間をすり抜けるのにバランスを崩すかも。レンジのトースター機能を選んで器を溶かしちゃうかも。ガスに鍋をかけたまま冷蔵庫を開けようとして背中に火がつくかも。

 考え出せば切りがない。

 まあそれでも、3年行ったり来たりするうちに、どうやら母もこのうちに慣れた。レンジでご飯をチンしたり、トースターでパン焼いたり。猫を蹴飛ばしつつ寝室にもベランダにも出入りする。ここで暮らせそうじゃないか。ウエットな説得は効果ないとわかっていたので、あくまでドライにプラクティカルに理由を並べた。女ふたりで家2軒維持するのは光熱費も食材もムダが多いでしょう。母さんが掃除洗濯で私が料理すればいいじゃない。などなど。 だってもうひとりじゃムリでしょ、なんて言うと絶対に来ないに決まっている。迷惑かけるしとか、ひとりでできるもんとか、鬱陶しい応酬になるのは目に見えている。

 最終的に母が決心したのは、”このまま母さんがここにいるとお兄ちゃんがますます縁遠くなるよ”という私の言葉のせいだったような気がする。兄は実家から車で1時間ほどのところに住んでいる。同居はしていなくても、もし兄が結婚したらお嫁さんはいずれ姑の面倒みないとと心配するだろう。
 ”その点ホラ、私は一応いっぺん結婚したし。母親の面倒見てる娘って株上がって売れるかもしれないし”

 同居を始めて、私が仕事中ひとりだとボンヤリするばかりなので無料の高齢者用体操教室に登録し、100円バスで通う方法を覚えた矢先に、母が背骨を折った。なんてことない、空っぽのダンボールを移動しようとしてバランスを崩し、床に倒れて背中を打ったのである。その時は痛くもなくてそのまま部屋の片付けをして就寝し、翌朝起き上がれなくなっていた。骨粗鬆症による圧迫骨折。本人がどうしても救急車はイヤだと言うので、担ぎ上げて一番近い整形外科で受診。そのまま入院である。退院まで1ヶ月。ギプスが外れたらコルセット。
 すわ一大事。このまま車椅子か寝たきりか。今度こそ大改造してバリアフリーにしないと。廊下に手すりつけて、電動ベッドにして、とグルグル考えたが、母上は不死鳥のように蘇った。10日のうちに歩行器で病棟の廊下を爆走し、退院の1ヶ月後には風衝草原でスカシユリを見て、3ヶ月後には高原を歩いてトリカブトを見た。結局、一切部屋に手をつけずに済んだ。今年から介護保険を受けられるようになり、リハビリ教室に通い始めた。
 認知症の方も、身体能力も、この3、4年で一番調子が良いのではないだろうか。

 私の方も、当初は漫画読むのを控えたり、アニメ見るのをガマンしたり、ダラダラするのをあきらめたり、いろいろ無理をした。だが無理なものは無理でそんなの続かない。この年でライフスタイルを変えるなんて無理なのである。自炊率が上がって、使ったものを出しっぱなしにしないなど多少の改善点はあったが、おおむねそのままだ。

 そして私の母に対する苦手意識がほぼ完全に払拭された。これについては別のところで考察したが、とにかくこの50年で一番気楽である。つまり私の生き辛さのかなりの部分は母との関係だったのだと思う。父を間に挟んだライバルだったのが、父が亡くなって本妻と愛人が仕方なく共闘するように、仲直りしたわけだ。

 脳梗塞の後、軽い認知症になった母は完全に料理の仕方を忘れた。もともと料理が嫌いで、料理に興味がない人だったのだと思う。食べることは大好きだけど、馴染みのない食材や料理は食べたくない。外食でも一番食べ慣れた無難なメニューを選ぶ。できるだけ多品目の食材を目先を変えていろんな調理法で、という欲求はハナからない。そういえば、母の手料理のメニューは少なかったし、使われる食材と調味料の選択肢は極端に狭かった。ゴマ油どころか醤油もない。昆布だしと塩砂糖、塩コショウだけで料理しているのだ。実家に住んでいる頃はそれを疑問にも不満にも思わなかった。しかし兄も弟も、私も実家を出た後は料理と食べ歩きが趣味になった。人生そんなもんである。

 ひとり暮らしの間は、袋ラーメンに卵とチンゲン菜入れるとか、五目煮作るとかシチューがせいぜいだったが、人間慣れるものだ。今では一汁三菜二人分を30分かからずちゃちゃっと用意できるようになってしまった。母は相変わらず、魔女の実験のように得体の知れない調味料をあれもこれもブチ込んだ私のケッタイな料理に懐疑的だが、文句言わずに食べている。気の毒に。
 最初は食器の場所もわからないし、鍋は重くて持ち上がらない、身体はふらつく、目眩がする、という状態だった。私が全部先回りして片付けて、使うばかりにして用意するようにしていたら、そのうち母が急須も重いと言い出した。筋肉が落ちて、血流も水分循環も悪くなってしまった。大いに反省して、せっせと母をこき使うことにした。洗濯物を干せば否応もなく爪先立ちして、ふくらはぎに筋肉がつく。私が料理したら食器洗いは任せる。簡単な買い物には自分で行ってもらう。その代わり、こっちが考えているのを違う結果になっても文句言わない。要求は伝えるが頭ごなしに責めたりしない。その都度、お礼を言う。この辺をなあなあにしたり甘えたりすると、熟年離婚する夫婦みたいにギスギスするのが目に見えてる。つい最近まで仲が悪かったせいで、嫁姑ぐらいに心の距離感があるのだ。言わずにわかって欲しいなどと甘えず、情報交換を細やかにして、マメに礼を言う。感謝を言葉や態度に表す。

 そんなわけで今は快適である。時限付きなのはわかっている。でもとにかく今は楽しい。少しでもこの時間が長く続きますように。できるだけ長く頭も身体も健康で、充実した晩年を謳歌できますように。私は気負いすぎず背負い過ぎず、八つ当たりせず母を言い訳にせず、私なりの充実した人生を前向きに過ごせますように。
 毎朝、お仏壇代わりのTV台にお茶をお供えして野花を飾り、線香あげて手を合わせる。南無南無。

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