categoryスポンサー広告

スポンサーサイト

trackback--  comment--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
category墓守り娘日誌

ゆりの首

trackback0  comment--

母の庭は家族の呪いであった。認知症が徐々に進みつつある母にもう確かめることはできないかもしれない。そうでなくても本当の気持ちはずっと聞くことができなかった。だからこれは私の想像に過ぎないかもしれない。母は花の手入れをしながら60年ずっと父への怒りを募らせていたのだ。

 私には5歳以降の写真がほとんどと言ってない。5歳までは厚いアルバム3冊に貼り切れないほど写真があるのに、ある時期を境にぱたっと家族の写真が無くなっている。弟は私が4歳の時に生まれたので、赤ちゃんの弟を私が抱っこしている写真はある。弟のお誕生アルバムもある。でも掴まり立ちしたりよちよち歩きしたり、一番可愛いはずの頃の写真があまりない。その後の写真は保育園や小学校の行事で撮られたものがポツポツあるだけ。つまり父が家族の写真を撮るのをやめたのである。その頃の母の年齢を数えてみると40歳。子供の私にはよくわかっていなかったが、その頃家族の”相”が何か変わってしまったのだと思う。

  私が5歳というと大阪万博の年だ。その年、長屋暮らしだった大阪を離れて一家で九州に引っ越した。公団の団地には小さなベランダしか無かったが、元々田んぼだった土地なので周囲の自然が豊かだった。団地なのにアオダイショウが出たりホタルが飛んだりしていた。大阪では毎朝スモッグ警報が出るような汚染地帯に住んでいたので、文字通りがらりと空気が違う新天地だった。私はよちよち歩きの弟を連れて、近所の男の子達と一日中外で遊んでいた。ハヤを捕まえたりマムシを捕まえたりクワガタを捕まえたり。兄はもう中学生になっていたので一緒に遊ぶという感じでは無かったが、捕まえて来た生き物の名前を図鑑で調べる方法を教えてくれたのは兄だった。小学生になる頃には、野外で見つけた生物の標準和名をリストアップして記録するという習慣がついてしまっていた。昆虫や野鳥は兄に聞く。植物の名前は母に聞く。夏休みの自由研究で、母と兄に手伝ってもらって団地の一畳分程のベランダに生えている植物の名前をすべて調べたことがある。300種を越えていたと思う。田んぼの畦や道路傍の植物をプリンカップに植えた雑草植物園を作っていたものだ。

 その後、両親は九州で3回引っ越した。引っ越す度に庭が大きくなった。私は進学で家を出たので、九州での4軒めの家ではほとんど暮らしたことがない。そして今、その家には誰もいない。父が亡くなった後、具合の悪い母を私の家に引き取ったからだ。坂の上にある父の終の棲家。母が20年丹精した庭は今、誰も手を入れないのに花が咲き乱れている。

 団地から引っ越した2軒めの家はお化け屋敷だった。辻の突き当たりにあって、毎晩いろんなものが通って行く。3年足らずで引っ越した。小さいながらも池があって、縁側の上に藤棚のある風情のある庭だった。ここにも母はところ狭しと何やかや植えていた。3軒めは竹林の斜面にある家で、裏庭は竹の根ばかり張って何を植えても竹に負けてしまう。居間に面した3畳ほどの庭に、前の家から植物を移植した。ミヤコワスレ、シャガ、ジュウニヒトエなんかがあったように思う。イタチや野鳥が遊びに来る庭だった。

 植物は母の趣味で、庭は母のテリトリーだった。だがどういうわけか母は、庭の手入れは男の仕事だという概念にとりつかれていて、父が庭仕事をしてくれないのが不満だった。どうやら園芸は母にとっては趣味でなく家事らしいのだ。竹林の家で10年。坂の上の家で20年。庭は両親の確執の種であった。

 父が家族の写真を再び撮り始めたのは子供が全員家を出てからのことだ。母を連れてあちこち日帰りでドライブしたり旅行に行ったりしていた。花の好きな母のために、父は常にテレビのニュースや新聞をチェックしていて、ヤマシャクヤクが咲いたと聞いては南、ヒトツバタゴが咲いたと聞いては東へ、往復400キロでも厭わず出かけて行った。父の写真の中で母は微笑んでいる。若い頃、私たちが小さかった頃に子供と写っている母はいつも緊張気味で笑顔がほとんどない。微笑んでいても微笑んでいなくても、その表情の向こうに常に隠していた感情を知っている。母は怒っていた。ずっと父に対して怒っていた。5歳で物心つくかつかない頃から、私は母の愚痴に聞き役だった。それはけっこうしんどい役回りだ。いったん話し始めると数時間語り続けるからだ。母の怒りは父が亡くなっても消えず、3年経っても思い出す度に爆発していた。母の話しを聞きながら、私は常に罪悪感を抱いていた。”私のせいで”母は父に蔑ろにされている。父に対する批判なのに私に対する攻撃で八つ当たりなのである。つまり私の位置づけは、母にとっては父の浮気相手。ライバルなのだ。

 私には兄2人と弟ひとりがいた。下の兄は1歳と1日で亡くなった。生まれつき心臓が悪かったそうだ。弟は大人になってからガンで亡くなった。この2人の看病の際に、母に任せきりで父が協力的で無かったというのが母の怒りの芯にあるらしい。弟は高齢出産だった上に生まれた時未熟児で、障害も疑われていた。父はもう子供は要らないとか、産ませるつもりは無かった的なことを言ったらしい。実際、父は弟にあまり関心がなく冷淡だったように思う。抱きもしなかった、と母が吐き捨てるように言った。母は弟と父の話になるといつも激昂してしまうのである。弟にかまわないくせに私のことは連れて回って周囲の人にも見せびらかすものだから、余計に怒りが募るらしい。母まで私を可愛がったら弟が可哀想と考えていた節がある。父に対する怒りがそのまま私に向かい、母は私に冷淡であった。父への不満が私にぶつけられた。そういう状況が理解できるようになったのは、私が中年になってからのことである。子供の頃はわけもわからず母に距離をおかれて、何をしても批判的に扱われて決して褒められることがなかったので、兄弟の中で自分だけ他所の子なんだろうと思っていた。父が浮気してできた子なんだろうと。下の兄の代わりに自分が死んだら母は幸せだったんだろうなあ、と考えたこともある。兄が大好きな私は何でも兄のマネをして、兄と同じ進学校から国立大学に進んだ。私の合格を母は喜んでなかったように思う。むしろ、弟にプレッシャーがかかって可哀想というようなことを言われた。十代で結婚して子供を持つ同級生も珍しくない学区だった。近くに住んで孫を見せてあげて、ああいうのが一番の親孝行よね、みたいなあてつけを言われたこともある。

自分も子供のような父は、子供が自意識を持つと興味を失ってしまう。というわけで物心つく頃には、両親の両方に甘えられない状態になった。別に衣食住に不足があったりしないが、何をしても認められないのはしんどいものだ。兄弟と仲が良いのは幸運であった。反抗するほど構われていないので、私に反抗期はなかった。思春期の頃には、母がこうなのは下の兄が亡くなった心の傷がまだ癒えないのだろうな、と考えるようになった。”お母さんが可哀想なのでお父さんとはできるだけ話さない”という態度を取るようになったが、これはそのまま”末っ子が可哀想だから娘を突き放す”という母の方針の応用なのである。母に言わせると、私は父のお気に入りで弟との扱いが全然違うらしい。私はとにかく父のかまわれないようにと言うより、母のライバルにならないように必死で身を潜めていた。着飾ったりしない。ピンクが嫌いというよりピンクや赤を着るのが怖い。花柄もフリルも怖い。5歳から、進学で家を出るまでの間、写真の中の私は硬った顔をしている。ピースサインをして我先に写っている友人たちの影に隠れて、できるだけ目立たないようにしていた。『何を調子に乗ってるの』と指摘されるのが怖い。それはイジメっ子から、というより母からだ。私は会ったこともない次兄のために喪に服していないといけない。晴れやかに笑ったり、ましてや彼氏を作ったりするのは不謹慎だ。身の程を弁えないといけない。私は次兄や弟や兄や母を犠牲にして生きているのだから。

2軒めの家にいた頃が一番辛かった。その頃、私は中二で、イジメと家庭内に居場所がないのとで、学校で耳が聴こえなくなったり目の前が真っ白になったりしていた。ここでないどこかに、自分の受け入れられる場所があるはずだ。どこかに自分のことをわかってくれる人がいるはず。そう思い込んで家出したことがある。死ぬつもりだった。この世にはそんな場所がないと思い詰めていたのに、結局家に戻るしかなかった。母は兄に今後私に優しくしないように、と命じた。兄が甘やかすから私がそんな非現実的なことを考える。世の中のもっと苦しんでいる人のことをわかっていない。そう叱られた。もっと苦しんでいる人とは、結局母自身のことなのだ。兄は母のお気に入りなので、母の手前、私を庇うことが出来なくなった。その後は、弟が何かと私の面倒をみようとしてくれるようになった。いささか過保護過ぎるぐらいに。

 母に言わせると、兄も弟の母とそっくり。私だけが父に似て、父の性根も受け継いでいるということになる。そういう父は、客観的に言うと近所の人に羨ましがられるような父親だった。酒も飲まず、毎日ほぼ定時に帰宅してTVを見る。出張に行くと必ずお土産を買って来るし、母や私が出かける時は必ずバス停や駅まで車で送り迎えしてくれる。相対性理論だの、中国の古代史だの、何時間でも子供の議論に付き合う。週末は海や山にドライブ。若い頃の写真を見ると、子供の欲目抜きで映画俳優になれそうな男前だ。関西ではトップクラスの進学校で学んだが、戦時中に祖父が亡くなって卒業を待たずに工場勤めをして家計を支えた。スポーツ万能。漫画みたいな男である。まあ、自分でも自分がハンサムで頭いいなのを知っているので、その辺が癇に障る部分があるかもしれない。同性からは嫌われることが多かったようだ。昭和ひとケタの男性はそんなものかもしれないが、とにかく母の不満の中心は、父が家事をしないこと。そして経済的に余裕が無かったことである。母は70歳までパートをして家計を支え、家事をこなしていた。自分の給料をもらっても自由にできるお金がない。たまに買うカバンは500円。子供のお小遣いも同級生と比べて可哀想なぐらい少額。なのに父は仕事のうちと言いながら、高級店で外食し、ゴルフセットやテニスラケットを揃えて、高価な文房具や写真集などをポンポン買って来る。母も昭和ひとケタの女性らしく、そんな不満を直接父にぶつけたことは無く、ただ黙って怒りを貯めて、やり切れない鬱憤を父のお気に入りの娘にぶつけていた訳である。迷惑な話だ。

けっこうひどい結婚生活を経験した私から見ると、父のどこが不足なのかと思う。父で不満なら、どんな配偶者でも絶対に満足できないんじゃないだろうか。酒を飲んで暴れるでもなく、浮気もせず、安月給でも毎月ちゃんと生活費を入れてくれるんだから御の字ではないか。私の配偶者に対する期待値が低過ぎるのだろうか。

 母は、下の兄と弟のことで父に裏切られたと怒りを募らせていて、その後どんなに父がサービスして機嫌取ろうとして来ても”騙されるものか”と決して心を開かなかった。自分が一番可哀想で犠牲者なので、どんな理不尽も正当化される。癌が進行してもう水も飲めなくなった弟が病床で、『俺より母さんの方が可哀想みたいだな』と言った。こんな時でも気遣ってくれてなんて優しい、と母は感涙していた。でも私は気遣いでなく、弟の本音だと思う。病身の弟よりも、最愛の息子を失おうとしている自分の方が辛い、こんな悲しみを誰もわかってくれない。母はそう思っていたんじゃないか。

 実際、私には母の気持ちがわからなかった。母が私の味方でなかったように、私も母の味方ではなかった。配偶者としては父は冷酷な男だったのかもしれない。支配的で母の自我を抑圧していたのかもしれない。夫婦の間のことは子供にはわからないのである。できれば夫婦間の問題は子供を巻き込まずに夫婦間で解決してもらいたいものだ、と考えていた。だいたい、父が母に対して冷淡で家事を手伝ってくれなかったとしても、兄を独り占めして2人して台所でいちゃいちゃしているのだから、何の不満があるのだ。私はその輪から排除されて、手伝わないと批判され続けた。兄がいつまでも独身なのは母に原因がある。

 家事のことを父に頼んだ時、父は『俺はそんなことをするように生まれていない』と言ったそうだ。父方の祖母は、成績の良い父に『あんたはお勉強だけしておけばいいのよ』と家事を一切免除させていたらしい。『自分だけぬくぬく部屋の中にいて、弟達に水汲みとかやらせて恥ずかしいとも思わなかったのよ』と母は怒る。その怒りが私に向くわけだ。

 母は銀行からお金を卸したことがない。電車の切符を自分で買ったことがない。目覚まし時計の電池を交換したこともない。父が亡くなって私と暮らし始めたが、もちろん今更そんなこと自分でできない。私がビデオをつないだり、パソコンをつないだりしていると、『そういうことを頼める男の人いないの』と言う。男の仕事が自分でやらないといけない娘を可哀想と考えるらしい。トイレの電球が切れた時、私の友人のダンナさんに頼めばと言い出したのには驚いた。電球の規格を調べて、電気屋に行って、椅子に上って取り付ける、そんなことは母の仕事ではないのだ。

 とはいえ、夫婦喧嘩どころか言い合いも見たことがない。母が黙って不満を貯めて私に愚痴を言っているだけだ。父本人に言えばいいのに、と私が言うと怒り出す。『どうせ言ったって無駄』とさらに憤懣が募る。しかし買い物もお出かけも2人一緒。『優しくてなんでも出来ていいダンナさんねえ。本当にお幸せそう』と言われるのが悔しくて堪らない。父からは母に対する不満を聞いたことがない。父はこの結婚生活をどう考えていたんだろう。母がいわゆる毒親などとは思わない。どこの家族にもある歪みに違いない。たとえ家族でもお互いにわかりあえない。2人の人間が同じ位置を占めることはできないし、立ち位置が違えば見えるものは変わる。客観的に見ると我が家は“良い家族”なのだと思う。子供は3人とも反抗期も無く、グレもせず、ガミガミ言われなくてもひとりで勉強して大学に進み、早くに経済的に独立した。大人になっても仲が良くて年に2、3回は家族で旅行する。不平を行ったらバチが当たる。それでも母が父に対する怒りを溜めていたように、私は母に対する恨みを溜めていた。母本人に伝えたことはない。きっとこれはどの家庭にでもある秘密なのだろう。その闇は外から見えない。

 竹林の家で、母の庭はご近所の評判だった。丹精した白いユリが7輪、ツボミが膨らんで『咲いたらどんなにいい香りがするだろうね』と庭先でおしゃべりしていたそうだ。今にも咲きそうなその朝、ツボミがすべて切られて地面に落ちていた。父の仕業らしい。妻が大事に育てた花の首を切る。どんな気持ちでそんなことをしたのか。思い出す度に背筋が冷える。

 私の家に母が住むようになってから、私はかなりベランダに手を入れた。私のマンションのベランダは、昔家族で住んでいた団地のベランダと比べると面積にして10倍以上ある。毎年ネットを吊って朝顔を這わせる。だんだん種類が増えていろんな色の朝顔が咲き乱れるのを、母が毎朝数えてノートに記録している。私が仕事に出ている間、母はひとりなので退屈しないように大きな水槽に小型の熱帯魚を飼っている。寿命が短いので少しずつ個体が入れ替わるのだが、毎度その中にお気に入りと嫌いな魚を決める。『こいつイジワルなのよ。つつきに来るの』と水槽に網を突っ込んで、いじめられている魚の加勢しようとする。我が家には常に2~3匹猫がいて、それにもお気に入りを作る。そいつを褒めて、それ以外の欠点をあげつらい、お気に入りに『お前が一番可愛いね』と話しかける。室内は鉢植えで埋め尽くされているが、母が住み始めて以来順番に枯れていく。何度注意しても水をやり過ぎるのだ。受け皿を浅くするとカウンターを水浸しにするし、深くすると水を満タンに貯める。皿に水が切れると慌てて水をかける。根腐れを起こして萎れ始めると、水が足りないのかとさらに水をかける。株分けしながら何年も育てていた蘭の株が全滅した。つまりこれが母の愛情なのだ。私は選ばれなかった。根腐れせず幸運だったのかもしれない。こうして自分の稼ぎで家を持って母を介護できるのは、親や配偶者に養ってもらおうと期待しなかったおかげかもしれない。

 今思うに、母が許せなかったのは父ではなく、2人の息子の運命なのだと思う。2人の死を誰かのせいにすることで何とか現実と折り合いをつけた。もしかしたら母は幸せになったらいけないと考えていたのかもしれない。父と仲良くしたら死んだあの子達が可哀想だと思い込んでいたのかもしれない。特に癇癪起こすわけでも泣くわけでもないが、常に母が『怒りに耐えている』ようなので父は全力で母を慰めて機嫌を取っていた。今では配偶者まで見送った母が可哀想なので、父がやっていたように私と兄があちこち旅行に連れて行ったりドライブに連れ出してご馳走を食べさせ接待する。でも私と兄だって、弟を失ったし父を失った。私が可哀想ではないのは、母が姫君で私は身分が下だからなのかもしれない。母は悲しみで家族を支配していた。そして今は私が支配されている。

 初夏になるとベランダのプランターにオレンジ色の百合が5本咲く。棒を添えて毎年ツボミがふくらむのを心待ちに見守る。私もいつか、百合の首を落としてしまうかもしれない。その場合、落ちるのは母の百合ではない。私が育てた百合だ。猫を囲んで、一緒に料理して二人で朗らかに笑いながら、母は私に不満を漏らさないし、私も何も言わない。花を手入れしながらいつも考える。今の生活で私たちの関係は修復されたのか。それとも組み合わせが変わっただけで、母は父の代わりに黙って私に対する怒りを溜めているのか。子供の頃はそれを引き受けざる得なかった。でもこの庭は私の庭だ。母の庭じゃない。配偶者も子供もいない私は、いずれひとりになる。猫と暮らしながら私ひとりの庭に手入れする。呪う相手もいない私は幸せなのか不幸なのか。20年丹精した庭を離れ、かつて疎んじていた娘に面倒を見られてコンクリートのベランダで朝顔を数える母は、今幸せだろうか。

 


スポンサーサイト
 
http://hadukipiper.blog42.fc2.com/tb.php/227-2b6362ee
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。