category横笛奇譚

『お渡り峠』

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夏の風物詩。宵宮に神楽、お囃子。
囃子方は ”ヨリマシ” なのである。笛子さんも笛を吹く運命だ。

ぴったり3000字です。

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 雨の日にドライブするのは好きだ。
 週に2回、職場から1時間ほど離れた隣の市のジムに行く。なぜ隣の市にわざわざ行くかって? 職場の人間や知り合いに会いたくないからだ。週に2回、匿名の個人に戻りたい。
 30代後半で独身の私には、職場も家族も居心地が悪い。やっと自分自身の力で自分らしく生きていけるようになったのに、なぜそれ以上を求められるのだろう。ずっと優等生で生きてきた。なのに今の私は親にも上司にも扱いかねる問題人物なのだ。結婚していないというだけで。
 誰一人顔見知りのいないジムで禁欲的に汗を流す。イアホンの音楽に合わせてマシンで走り、ざっとシャワーを浴びた後、水着に着替えてプールでクール・ダウン。私自身に返ることができる時間だ。

 市境の峠はどういうわけか、夜いつも雨が降っている。JRの線路を跨ぐ跨線橋があってそこについている地名が「お渡り峠」。
 ”お渡り” って何だろう。どうしてただの ”渡り” じゃないんだろう。気になっていつもその標識を読んでしまう。
 プールで疲れた身体はまだ浮遊感が残っている。夜、雨の道路を運転していると、水の中をドライブしている気分だ。ジムに行った日は必ず、夢の中でも泳ぐことができる。空のような海のような青い広い空間を自由に。

 そんな日常と日常のすき間を漂う気分だったからだろう。何の警戒心もなくヒッチハイカーを拾ってしまった。
 やせた青年で頭からつま先までびしょ濡れだった。ジムで使わなかった予備のバスタオルを貸してやった。青年はマウンテンバイクがパンクして予備のチューブも劣化していて……というような言い訳をぶつぶつ言いながら大きな荷物を後部座席に積んだ。あれにバイクが入っているのだろうか。
「どこまで乗せればいい? 市内なら送ってあげる。この雨だもの」
「助かります。南川端の祖母のうちに遊びに来てるんです。珍しくて走り回ってるうちに遠くに来過ぎちゃった。祖母のうちは9時には寝ちゃって誰も電話に出ないし、こっちには知り合いいないし……」
「それは災難だったわね。どこから? 東京?」
「ええ、夏休みで」
 学生なのだろう。よく日焼けして人懐こく笑う。
「南川端に小さなお稲荷さんがあるでしょ? その裏の家です」
 稲荷神社などあったろうか。思い出せない。
「ほら、川の側にちょっとした木立があるでしょ。あそこです」
「まあ、近くになったら道を教えて」

 青年は特に顔立ちが整っているというわけでもないのに、何と言うか……心地よい外見だった。するりと人の心に入ってくる声。体温を感じさせない肌理のそろったなめらかな肌。柔らかそうな髪。
「僕、住吉銀太って言います」
 一瞬、迷った。名乗るべきだろうか。
「笛子よ。如月笛子」
「へえ、いい名前ですね」
 もちろん偽名だ。
「僕も小さい頃、よく笛を吹いたんですけどね。祖母のうちで祭りに出るときに」
 聞かれもしないのに、そんな話をする。
「今は吹かないの?」
「どうだろう。今年はまた吹いてみるかな。住吉さんのお祭りで」
「いつだっけ」
「来週の金曜が宵宮です。見に来ますか?」
「そうね。行ってみようかな」
 宵宮なんてもう何年も行っていない。神社のお祭りなんて、今の私には夢のように遠く響く。
「あ、そこです。そこの杜」
「ここでいいの?」
「ええ、助かりました」
 青年は後部座席から身軽に大荷物を下ろす。

 一瞬、本名を教えておけばよかった、と思う。でも今更、訂正なんかできない。
「あの……」
「笛子さん、お祭りくるでしょう?」
 青年が人懐こく笑う。現実感のないきれいな笑顔だ。
「……ええ、行くわ」
 するりとそう答えてしまった。
「良かった。待ってます」
 そう言うとあっさり青年は木立の中に走って行ってしまった。

 翌朝、職場でお茶を淹れながら、心は峠に飛んでいた。跨線橋。線路の両側はわずかな水田と小川、そしてミズナラの森だ。線路ができる前、あそこはどんな風景だったのだろう。
 急須や湯のみを温めてお湯の温度が適温になるのを待つ。お茶を淹れる作業は好きだった。丁寧に入れれば丁寧に香る。でも私より10歳以上若い女性は、「私はお茶汲みするために司書の資格を取ったわけではありません」ときっぱり言った。それ以来、私がお茶をいれ始めると職場に妙な緊張が走る。かといって彼女が入る前から続けてきた習慣を崩すのはいやだった。おいしいお茶を淹れるのは、古書の修理と同じく私の特技なのだから。子供の頃から大好きだった図書館で働けることになってうれしかった。なのに、ああ……息苦しい。なぜ「女も年取ると必死ね」などと囁かれなくてはいけない。あの森に行きたい。緑のしっとりした空気を思い切り呼吸したい。
 彼は本当に来るのだろうか。私は今から来週の宵宮を楽しみにしている自分に気が付いた。


 そして今日はジムの日。また峠は雨だった。私はプールの浮遊感に漂いながら、彼のことを考えていた。
 何だか予感があった。また峠に差し掛かる。 ”お渡り峠” に。
 今夜も峠に人が一人立っていた。私はためらわず車を止めた。

 道路の脇に濡れそぼって立っていたのは、今度は女性だった。初老といってもいい、でも姿勢のいい和服の女性。
「どちらまで? 町までお乗せしますよ」
「南川端の住吉さんまで」
「ああ、そこならわかります。どうぞお乗りください」
 私は予備のタオルを女性に渡して車を出した。
「住吉さんというと、銀太さんの?」
「叔母です。銀太がお世話になりました。あの鉄の道ができてから、お宮に行けなくなりましてね」
「それはご不便ですね」
「なかなかあなたのように止まってくれる人ばかりではないし。ようやく渡れました」
「これからはずっとあの杜で暮らすのですか?」
「え、そうですね、私はしばらくあっちにいようと思います。お宮を母ひとりに任せているのも悪いし。母を峠に返して私は町暮らし。久しぶりだからずいぶん勝手が変わっているでしょうね」
 女性はくつくつと笑う。
「どのくらい久しぶりなんですか」
「ええと、前にお宮に行ったときは銀太を生んだ姉につきそって……あの頃はまだお城に殿様がいたんじゃなかったかしら」
「それじゃあいろいろ珍しいものができているから面白いと思いますよ」
「ええ、当分退屈しないで済むでしょう」
 女性は杜の前で、深々と頭を下げると木立に消えていった。

 次の週もジムの帰り、峠は雨。今夜、峠に立っていたのは小さな女の子だった。
「こんな雨の中、私を待ってたの?」
「はい」
「住吉さんでいいの?」
「はい」
 女の子はされるがままに、私にタオルで拭かれてにっこり笑った。
 車を走らせながら、私はさりげなく聞いてみた。
「あなたは……銀太さんの……?」
「母です」
 妹のまちがいかと思ったが、少女は落ち着いてにこにこ笑っている。
「昔はもっと大きかったんです。でも木に入ってみたら、その木が切られちゃって。だから私は “ひこばえ” です」
「そう。良かったわね、芽が育って」
「はい」
 杜の前で少女はぺこんと頭を下げるとまたにっこり笑った。
「宵宮に来るでしょう? 宵宮が明けるとき峠への道ができる。私は母を連れて森に戻るんです。一緒に来るでしょう?」
「ええ、行くわ」

 そして今夜は宵宮。私は数年ぶりに浴衣を着て杜に向かう。
 ころころと草履を鳴らして石畳を歩く。杜の中から澄んだ笛の音が聞こえていた。
 彼は私の本名を聞いて笑うだろうか。でも本名なんかどうでもいい。私は私だもの。
 今夜、私も渡ろう。峠を渡ってあの緑の森へ。

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〔テーマ:自作小説ジャンル:小説・文学

 









        
 
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