categoryアンチ・プリンセス・ファンタジー

『白雪姫の終焉』

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 (ちょっと大人向き。恋愛小説に初挑戦したもの。アンチ・プリンセス・ファンタジー風味。)


 地方の小さな化学研究所で研究員をしている ”私” は、恋愛に晩生な女性だった。しかし、仕事は充実しているし、生活に何の不満もなかったはずなのに……。

 突然のお客が舞い込んで、”私” の毎日は一変してしまった。映画だけで見るもの、自分とは無関係だと思っていたさまざまな感情が次々に湧き起こる。その鮮やかさ、力強さ。

 ……もう元の ”私” に戻れない。


 ===== ===== ===== ===== ===== ===== ===== =====
 ラボでこの春から研修にやって来たケニヤとタイの研修生に日本語を教えつつ、実験手順を説明していると、室長に呼ばれた。

「ハナさん、ちょっといいかな」
 ハナ、というのは塙田という私の苗字に由来するニックネームだ。
「はい。すぐ行きます」
 研修生に次の操作を指示して、室長室に向かった。
「何でしょう」 
「ええと、人手が足りない、という話をしてたの、覚えてる?」
「ええ」
「人手が今日来る」
「は?」

 室長の笹原は、優秀な研究者なのだが、とっちらかった性格でおおよそ管理者に必要な計画性とか事務能力がない男だった。それでも、この男の鷹揚さのお陰で、個性の強い人間ばかりの研究室で、大した衝突も起こらずやっていけているのだ。

「ハナさんが学会でカナダに行ってる間に、一応形式的に面接したんだ。本当は4月1日からの予定だったんだが……前の職場で最後のご奉公中に……」
「はあ?」
「インドネシアのジャングルで調査中に、テロが起こって道路から空港まで閉鎖されて帰国が遅れたらしい」
「はあ……」
「で、今日の3時半に空港に着く。ハナさん、迎えに行ってもらえないかな」

 笹原はデスクをがさごそしだした。相変わらず倒壊寸前の書類の山だ。どういうシステムで積んであるのか知らないが笹原は数分で目的の書類を発見した。
「これが、そいつのアパート、こっちがウィークリー・マンション。アパートに生活用品が整うまで、3日確保している。まあ、延長可能だ。できれば、彼のこの町でのガイダンスと、最初の買い物、役所の手続きなんかの面倒を見てもらえないかな。学会終わって、当面、差し迫った仕事ないでしょ、ハナさん」

 私は困惑した。学生時代もそうだったが、この職場に来てからもやたらにこういう類の雑用が多いのだ。研修生の世話係だとか、海外からのお客さんの案内係りだとか。
「あ、悪かったかな。でも、この人、ハナさんの大学院時代の後輩らしいよ? 知ってる? 緑川周」

 言葉が出てこなかった。まさにぽかん。これは2週間遅れのエイプリル・フールだろうか?



 バゲージ・クライムから彼が出て来た。3年ぶりなのに変わらない。たたずまいは普通なのに、どこかまとう空気が違う。足が地面から2~3センチ浮いている気がする。彼は私が迎えに来ると聞いているのだろうか。特にきょろきょろした様子もなく、自然に立っている。
 私は、到着口から少し離れたところに立っていた。団体客が2塊りほど通り過ぎるのを待って、くたびれ気味の観葉植物の影から出た。彼はすぐに気づいて私に手を振った。

 どうしよう。彼が私に笑いかけている。眩暈がした。どうしよう。

「ハナさん、お久しぶりですなあ。そないなところに隠れてはったんですか。わざわざすいません。お世話おかけします」
 相変わらず、崩れた京言葉、人懐っこい笑顔。
「今年も、T研で研究員をやるんだと思ってたわ」
私は固い言葉で責めるように言った。
「いや、そういう予定やったんですけど、うちの先生が笹原さんと長い付き合いでしょ。誰か寄こせー、言われて、一番身軽な俺が来ることになってしもたんです」
 私たちの周辺も、近頃立て続けに結婚している。2週間後の連休中に、同じ研究室出身の小澤くんが結婚する。その招待状を今朝受け取ったばかりだ。でも、彼はまだ結婚していない。そして私も。だから気軽に使われて、気軽に飛ばされるのだ。

 緑川は、まるで一泊旅行のように身軽だった。コンパクトな書類かばんひとつ。
「荷物それだけ?」
「ほうです」
「良かった。車じゃないの。空港道路はこの時間、身動きできないほど混雑するから。地下鉄で移動するわ」
「地下鉄ですか?」
「ええ。嫌い?」
「そうじゃなくて……今日はこれから研究室に戻らなあかんのですか?」
「いいえ。今から戻っても5時になるから、あなたを当面の宿に案内するように笹原さんに言われたの」
「ほうでしたら、地下鉄に乗る前に、ちょっとええですか?」

 緑川が向かったのは、空港の展望ラウンジだった。
「俺、方向オンチなんですわ。土地勘ないまま地下鉄で移動したら、何やわやくちゃになりそうで……」
 そういいながら、緑川はスコープに100円を入れてきょろきょろし始めた。
「海はあっちでおうてますか」
「ええ。あっちがS山脈、あっちがH山。あの影がS半島……」
「ほうほう。これは難しそうや。俺の地元と海の位置が90°違うんですわ。しばらく目が回りそうや」
「海の位置?」
「何だか自分の中の腹時計、ちゃうな、座標系が出来るまで、方向がつかめなくてよく道に迷ってしまうんですわ」
 相変わらず、大マジメに不思議なことを言う。私は、スコープをのぞく緑川から目が離せなかった。そのくせ、彼が顔を上げる度、目をそらしてしまう。どうしたらいいだろう。


 私の中の座標系は、まだこの都市に合っていない。3年も住んでいるのに。私の海は、まだ緑川と通った研究室のあるあの町を指している。3年も経ったのに、私は迷ったままだ。ただ、日々の生活に没頭して逃げていたのに、今日いきなり、過去が私に答えを迫ってきた。

 地下鉄で10分、私鉄の駅に出てその地下のバス・ターミナルからバスに乗る。
「ここから40分くらいかな」
「ほうほう」
 緑川は空港で買った10万分の1の都市地図を見ながら、地下鉄とバスの軌跡を確かめている。
「やっぱり歩いてみいひんとぴんと来いひんなあ」
「まあ、それは連休にでも挑戦したら。とりあえず自転車があれば、たいていのところに行けるわよ」
「そら、ええなあ。明日、まずチャリ買いにいかなあかんな」
 私は笑い出してしまった。
「布団や茶碗より前に?」
「あかんですか」
「いいえ。いいんじゃない。明日、布団を買いにホームセンターに行きましょう。そこで自転車も買えるわ」
 緑川が地図から顔を上げた。
「明日も、ハナさんが付き合ってくれはるんですか?」
「ええ、明日から土日の間に生活用品をそろえれば、週明けには味気ないウィークリーマンションから自分のアパートに移れるわよ」
 自分をまっすぐ見つめる緑川の視線が怖くて、思わず付け加えた。
「室長命令なのよ。あなたの新生活支援全般」
「へえ。生活全般」  
 緑川が微笑んだので、全身の毛が逆立った。
「どこらへんまで含まれるんですか」
 失敗したかもしれない。

 
 同じ研究室にいたのは3年間。私が博士課程に進んだ年に、緑川が学部生として配属されてきたのだ。真っ黒に日焼けした探検部員。あの3年間は楽しかった。どういうわけか、3学年違うその男子の集団のあらゆる行動に私を混ぜてくれたのだ。同じ学年に妻子持ちの留学生しかいなかったので、有難かった。自然科学系のその研究室は、登山部、ワンゲル、探検部……とアウトドア系の人間が集まっていてフットワークが軽かった。緑川の学年に男子ばかり7人いて、みんな仲が良かった。今度結婚する小澤もその一人だ。きっと結婚式には7人、全員集合することだろう。みんなで、登山、キャンプ、ドライブ、大学の中庭で焼肉。いつも何かしらやらかしていた。山の中の怪しげな温泉に行ってみたり。分析試料の余った魚で、キテレツな鍋を作って教授にまでごちそうしたり。ちょうど研究室にも活気があって、大きなプロジェクトが立て続けに動いていた時期だ。みんなでわあわあ言いながら研究室に入り浸っているので、徹夜の測定も、本来孤独なはずの論文書きも楽しかった。7人の男の子と飛び回っている私を、教授は「白雪姫というより男子寮の寮母さんという感じだね」と評した。

 まるで自分も男の子になったつもりで、溶け込んでいる気分だったが、今考えると7人が私に気を使ってくれていたのが、よくわかる。一緒にいて、いわゆる下ネタ話を聞いたことがないのだ。そして7人それぞれに彼女ができたり別れたり、をしていたのだが、さりげなく彼女も研究室に連れてきて私に紹介してくれたりした。
 ”わかったろ? この人は違うんだ。何というか……女だけど女じゃないんだよ。俺達と一緒に遊べる人なんだよ”
 言外にそうガールフレンドに納得させようとしているようだ。

 どうして私が、ガールフレンドの女の子と違っていたんだろう。

 男性比率の高い研究室での生存戦略として、私はそういうアンテナを無意識に閉じていたのだろう。第一、高校で理系を選択した時から、私の周りは男ばかりだった。兄弟も男だけ。近所の遊び友達も男ばかりだった私は、よくわからない論理で動く女の子の機嫌を取るより、男子と行動する方がラクだった。別に女王として君臨したわけでも、男の振りをしたわけでもなかったが、何となく男子に「ハナは気ぃ遣わなくていいからラクや」と言われる存在になった。そうして、一度も男子と1対1のお付き合いをしたことがないまま、ここまで来てしまった。そうして、今の職場でも”寮母”さんのようなことをしている。まあ、このまま一生これでも別にいいや、と考え始めていた矢先に、緑川がやってきたのだ。

 まずは、アパートの大家さんにあいさつに行った。
「日曜に荷物が届きます。ダンボール10個なんで大したことないですけども、少しお騒がせするかもわかりません」
 緑川のわびの言葉に、70代らしい女性は相好を崩した。
「そんなこと、気にしなくていいんですよ。買い物か何かで出かけるんだったら、何なら私が受け取っておいてあげましょうか?」
 京都みやげの和三盆の干菓子で、すっかり気持ちをつかまれてしまったようだ。声のトーンや骨相学的に、決して柔和なタイプではなかろうと思うのだが、緑川の手にかかれば簡単である。
「いえいえ、自分で受け取れます。でも、有難いです。しばらくガサゴソするかもしれませんけど、よろしゅうお願いします」
「お互い様ですよ。大家と店子といえば、身内のようなものですから、遠慮なく頼ってくださいよ」
 会って5分で身内になってしまった。私ではこうはいかない。

 ウィークリー・マンションまで15分歩く道すがら、緑川は目ざとくリサイクル・ショップを見つけた。職場とバス道路を結ぶこの界隈は、割と頻繁に行き来しているにもかかわらず、今まで気づいたことがなかった。申し訳程度の看板はあるものの、普通の民家の軒先に粗大ゴミが積んであるという趣きだ。

「ちょっと見ていってもええですか?」
「ええ。もちろん」
 緑川は早速しゃがみこんで、物色し始めた。めぼしいものをより分けて、山を作り始める。みな、どこかしら壊れていて、私にはごみにしか見えない。壊れた本棚、足が1本ない椅子、塗料のはげた机、傾いたTV台……。

 店の中から60がらみの、ちょっとやさぐれた感じの男が出てきた。
「兄さん、そこのは売り物じゃないよ」
「ほな、捨てるんですか?」
「今日び、粗大ゴミの引き取りも有料だからね。まあ、割って小さくして燃えるゴミってとこかな」
「ほしたら、これ、もろてもええですか」
 緑川が、戦利品の山を指す。
「まあ、助かるぐらいのもんだが、こっちも商売だからねえ」
 男がちら、と私を見る。私はぺこ、と頭を下げた。
「そうだな。何でもいい。店内のものをひとつ買ってくれれば、それは全部タダで持ってっていいよ」

 薄暗い、ごちゃごちゃした店内は宝の山だった。緑川はすぐに欲しいものを見つけたようだ。読書用のスタンドと食器の水切り。さらに奥でごそごそしていたかと思うと、50円や100円の手書き値札をつけたCDを3枚持ってきて、スタンドの横に並べた。全部で、1700円の買い物。

「兄さん、どうやって運ぶ気だい?」
「そうやなあ。日曜に運送屋が来るから、ついでに頼むわけにいかんかなあ」
 私が車を出そうか、と言いかけたとき、男がにやっと笑った。
「ついでに運んでやろうか。多分、兄さんはお得意さんになりそうな気がするんだ」
「偶然ですな。俺もそんな気がしとったんです」
 私は少し、眩暈がした。この街について2時間余りで、もう緑川には身内と変な友人が出来てしまった。とても太刀打ちできない。彼を見ていると、神様に愛されている人というのはこういう人物のことじゃないかと思ってしまう。

 どこがどう、と簡単には説明できない。でも、初めてあったときから私は緑川から目が離せなかった。自分とは正反対という気がする。いつも弱みを見せないように虚勢を張っている私から見ると、彼は自然体でのびのびとふるまっているように見える。なのに、みんなに受け入れられ、愛されている。不公平だという気がした。でも、どういうわけか、そんな彼が誇らしかった。

 実をいうと、私は卒業式で緑川に告白するつもりだった。その頃、彼には比較的長く続いた彼女がいて、主に彼女の方が熱心だったので、他の6人は卒業したら、あいつ、今度こそ年貢を納めなあかんのとちゃうやろか、と囁いていたのだ。だから、玉砕覚悟。ただ、自分の気持ちの整理のためだけに告白しようと利己的に決めた。どうせ、これで卒業だ。気まずくなってももうめったに会う事もない。
 ところが、卒業式前日に”チチキトク”のメイルが父自身から来た。血を吐いたという。駆けつけて見るとごく初期の胃潰瘍で、1泊検査入院しただけで病院を追い出され、父はいたく不満そうだった。そんな父をなぐさめながら、私はちょっとほっとしていた。告白のチャンスを失った。まだ夢を見ていられる。そして、あっという間に3年経ってしまった。

 ウィークリー・マンションは何もかもそろっていて、当面急いで買い物するものはなさそうだ。
「中を初めて見たけど、きれいなのね。ずっとここでもいいんじゃない?」
「そら、勘弁してください。こんなとこ……2晩が限界やな」
「どうして?」
「何日住んでもこんなとこ……俺のものにならん」
 ドキッとした。
「ちょっとずつでも、自分の場所を広げていって、それでこの街の人間になりたいやないですか」
 3年住んでいる私のアパートは、私の場所と言えるだろうか。いまだに仕事関係以外に知り合いがいない。その他に話すのは、行きつけの美容院やパン屋の店員さんくらいだ。きっと、私は根本的にアプローチを間違っているのだろう。3年経ってもお客さんのまま。私はこの街の人間じゃない。この街は私の場所じゃない。

 きっと、私がちょっと暗い顔をしてたのだろう。緑川が人懐こい顔で笑った。
「ハナさん、腹減りませんか。俺、もうきゅーきゅーゆうとるんですわ。メシ行きましょ。俺、おごりますから」
 何が食べたい、と聞くとにぱっと笑って”ラーメン”と答えた。

 職場のみんなでよく来るラーメン屋に案内した。
「ここのご主人、ほとんどしゃべらないけど、驚かないでね?」
「へえ」
 店に入ると、彼はきょろきょろメニューを探した。
「メニューは2種類しかないの。ラーメンと替え玉」
「ああ、麺のお代わりですな」
「だから、黙って座っていればいいの」

 緑川はそこの味が気に入ったらしく、2回も替え玉をした。
「ハナさんはええんですか?」
「もうお腹いっぱい」
「ほしたら……今日、お世話になった御礼がラーメン1杯言うのも申し訳ないさかい、これ」
 さっきリサイクル・ショップで買ったCDを1枚差し出された。
「こういうの、聴かはります?」
 私はとっさに言葉が出てこなかった。
「あ、やっぱりこういうの失礼やったやろか」
「ううん。違うの。私、このバンドのコンサート、行った事があるの」
「知ってます。前、好きや、って言うてはったでしょ? あ、じゃあ、持ってはった?」
「ううん。持ってない。うれしい」
 ジャケットが薄汚れた100円のCDなのに、胸がつまってしまった。危険な兆候だ。こんなCD1枚、彼には大した意味がないとわかっているのに、たまたま私の好きな音楽だったというだけで、泣きそうになってしまっている。冷静にならなくては。

 ラーメン屋を出たところで、すぐ横手の細い小路からバイクが飛び出してきた。
 とっさに緑川が手を引っ張ってくれなければ、ケガをしていたに違いない。
「なんちゅうスピードや、こんな狭い道で……。ハナさん。大丈夫ですか?」

 私は言葉が出てこなくて、何とかうなずいた。轢かれそうになったショックよりも、緑川との距離があまりにも近いことにパニックになった。右手首がつかまれて、腰を支えられている。
 私は緑川の腕の中で、御礼をいうことも、いつものように何気なく笑うこともできず、ただ浅く息をしながら立っていた。顔を上げることもできない。うつむいて、小さく身体を震わせていた。
 頭の中で、30回くらい”いい年してみっともない”と自分を叱咤していた。”ただ助けてくれただけじゃない。こんな風に震えてさまになるのは18までよ。まるで、彼にそういう意図があると勝手に誤解しているみたいじゃないの。誰が……あんたなんかに”。そこまで考えて、涙がにじみそうになった。でもどうしても言葉が出てこない。さりげなく身体を離すこともできない。

 突然、緑川が小さく吹き出してそれから声を上げて笑い始めた。その笑い方があんまり屈託ないので、私はいじけた気持ちも忘れて思わず顔を上げてしまった。
「前にもこんなことありましたなあ」
「そう?」恐る恐る、小さい声で聞いた。
「覚えてはりませんか? ほら、俺らが配属されて最初の夏にキャンプに行きましたやろ。O渓谷」
 それは覚えている。
「大きな岩がごろごろしとる河原で、俺とハナさんで薪にする枯れ枝を探し取ったでしょ。そん時、ハナさんが黒い水たまりを見つけて……」

 思い出した。

 花崗岩質の白い岩が、水に削られてウォーター・スライダーのようになめらかな曲面を形作っていた。目がくらむほどまぶしい白い岩の河原に、墨か原油でも流したかという趣きの真っ黒な水溜りを見つけたのだ。直径1mばかり、深さは20センチくらいもあっただろうか。すぐ側まで近づいてのぞき込んでも、黒いものの正体がわからかった。

「ほしたら、ハナさんが指突っ込みはって……」

 その瞬間、水溜りの底の真っ黒な塊りが蠢いて、一斉に水面に迫って来た。
 何を叫んだか、覚えていない。2人とも腰は抜けるわ、のけぞるわ、お互い思わずしがみつくように手を握り合ってしまった。その黒いものは、無数のイモリだった。数百、数千はいたかもしれない。動くと腹の赤色が見えて、凄みがある。1匹、2匹なら可愛らしいが、こんなに大量にいると、さすがに圧倒されてしまった。
 ”フルーツ・バスケット!” と叫んだかのように、水たまりの中のイモリはしばらく右往左往していたが、やがてそれぞれ落ち着き場所を見つけて、また水底に黒い円盤になって収まりかえった。
 我に返って緑川の手を握っていることに気づいた時、思わず距離を取ろうとして足元がおろそかになった。
 バランスを崩して岩場で転倒しそうになった私を、緑川が支えた。

 今度は手をつかんだどころではない。緑川の右腕が私の背中を支えていて、身体が密着していた。私は息をするのも恐ろしかった。ただ、身体を小さく、固くして、できるだけ接触する面積を小さくしようと消極的な努力をするのが精一杯だった。

「あの頃、ハナさん、こう、おかっぱみたいな髪型してはりましたでしょう」
 確かに重めのボブにしていた。
「こう、前髪が長くてうつむいてると、目がすっかりかくれて鼻も上半分かくれて……ほやさかい、俺、ずっとハナさんのくちびるばかり見とった」

 私は、どうしてもいつもの”寮母さん”のペルソナを取り戻すことができなかった。
「何や悪いことしてしまったような気になりましたわ。他の6人にもえらく責められましてなあ。ハナさんに、何や悪さしたんやろう、っちゅうて」

 緑川がホールドを解いた。すると、かえって顔が近くなった。

「でも、翌朝何にもなかったような顔してテントを出てきたハナさんよりも、口も利けずにうつむいてテントに閉じこもったハナさんの方が、俺、かわいいと思た。だって、あれは素直なハナさんや」
 それから緑川は、ひとりごとのようにつぶやいた。
「ほやけど、何やかわいそうな気がして、俺は待つことにしたんや。待ち過ぎたかと心配しながら来てみたら……ハナさんが相変わらずやったんで、ほっとした。間におうたみたいやな」

 私は、その言葉が何を意味しているのか考える余裕もなかった。
 きちんと御礼を言ったか、ちゃんと”さよなら”と言ったか覚えていない。ぼうっとしたままバスに乗って、とぼとぼ歩いて自分のアパートに着いた時、初めて、自分の後ろに少し離れて緑川がついて来ていたことに気づいた。

「無事、送り届けましたから、俺はこれで帰ります。明日の朝、また迎えに来ますよって。あんまり早いのも何やな。10時でどないです?」
 私はまだ、言葉が出てこなかった。
「そのホーム・センターって遠いんですか? 近いんやったら、歩いていきまへんか? ハナさん、自転車、持ってはりますやろ。行きは、俺がハナさんの自転車押していきます。帰りは、俺も自転車買って、チャリンコでちょっと近所を案内してくださいよ。ほうやな、川と神社と山と小学校。これくらいの位置関係をつかむと大分、土地の感じが掴めると思うんですわ」
 緑川と一緒に自転車で、この土地に会いに行く。それは陶然となるくらい、魅力的な提案だった。でも、頭がしびれたように言葉を返すことも、表情を作ることもできなかった。
「ほな、明日10時に」


 眠れないまま、夜が明けた。
 頭をすっきりさせるためにシャワーを浴びて、着替え始めた。そして、すぐ途方に暮れた。

 緑川に会うのに、どんな服を着るべきだろう?

 土曜日に、同僚と買い物に行くのにふさわしい服装って?週末によく着ているレーヨンのブルゾンとジーンズを身に着けたものの、ラフすぎて何だか無防備に感じた。では、麻のパンツ・スーツ? 堅苦しすぎるだろうか……。たいして豊かではないワードローブをひっくり返しても、どの服もぴんと来ない。鏡の中の自分を見て、髪はくしゃくしゃ、顔は寝不足で青白くふけてみえる。日頃、ルージュさえ塗らないのだが、化粧して武装すべきだろうか?

 9時になっても、私はキャミソール姿で部屋をうろうろしていた。その時、電話が鳴った。
 緑川だろうか。私は恐る恐る、受話器を取った。通話の主は、大学院時代の友人、カナだった。
「わあ、ハナさん。お久しぶりです。お元気?」
 私はほっとした。カナの明るい声で、昨夜以来初めて本来の自分に帰れたような気がした。
「ホント、久しぶり。ゴロさんは? シンちゃんも元気?」
 ダンナさんと坊やの安否をたずねる。
「元気、元気。もう、家がきゅうくつで。それで、ハナさん、小澤さんの結婚式、来られます?」
「うん。出席のハガキ出したわ。カナちゃんも来る?」
「行きます。じゃ、久しぶりに会えますね。それで、昨日、クロちゃんから電話があったんですけど……」
 カナが、緑川と同級の女子の名前を出した。
「緑川くん、この春、T研から異動したんですって。知ってました?」
 私がどう説明しようか、どこまで話そうか混乱しているうちに、カナは私の挙動不審に気づかないように話を続けた。
「それで、緑川くん、異動の理由を何て言ってるか知ってます?」
「理由? ポストが空いてて、要請があったからっていうわけじゃないの?」
「それはもちろんですけど、緑川くんだったら行く先は選り取りみどりだったはずでしょ?」
 カナが声を潜めた。
「何だか、ずっと気になってた女の人がいて、その人の側に行くために異動先を決めたって言ったらしいんですよ」
 私は受話器を取り落としそうになった。
「それで、誰のことやろーって同期の間で、電話とメイルが飛び交いまくってるんですけど」
 カナは、今、緑川が私と同じ職場に来たことを知らないのだろうか?
「だって、緑川くん、現役のとき途切れず彼女がいたでしょ? 隣の学科の女子まで網羅してたじゃないですか。でも、彼が未練を残すような子がいたかなって……元カノはほとんど、もう結婚しちゃって子供いるし……」

 もうカナの言葉が耳に届いていなかった。
 鏡の中には、まだ着る服ひとつ決められない私。でも、もう顔は青白くない。手早く、ブルゾンを被ってチノパンに足を通して、いつもの休日スタイルをまとった。手入れする暇がなくて無造作に伸びた髪を手櫛でまとめて、バレッタで上げる。
「……ハナさん、聞いてます?」
「あ、ごめん、カナちゃん。着替え中で裸だったから、今、袖を通したのよ」
「それでですね、クロちゃんが聞いたには、その女の人は電話でもメイルでも手紙でもダメだからって言ったんですって。
自分を抑えて、本心を見せたり甘えたりできない人だから、近づこうと思ったら側にいるしかないんだって言ったんですって。ちょっとロマンチックでしょう?何だか、クロちゃんと2人で感動しちゃって、久しぶりにドキドキしちゃったんです。誰かに……そんな風に言われてみたかったって」
「そうね。素敵。でもちょっと意外だわ」
 カナの声のテンションが上がった。
「そうでしょーっ? 私、緑川くんは女の敵だと思ってましたよ。どの子とも長続きしなくって、次々相手を変えて。でも、それって
その忘れられない女の人のために、誰にも本気にならなかったのかしらって、一番大事な場所を空けておいたのかしらって考えたら、本当は、彼、ものすごく純粋なんじゃないかと思ったの。元カノたちには気の毒だけど」
「そうよね。ちょっとひどいわよね」
 時計は9時55分を指している。
「ごめん、カナちゃん。今から出かけるの。何かわかったらまた教えて?」
「ええ、今からアヤノンにも聞いてみようと思って」
「張り切ってるのね。じゃ、アヤノちゃんにもよろしく言ってくれる?」
「もちろん。ハナさん、いってらっしゃい」


 カン、カン、カンとアパートの階段を登る軽い足音が近づいて来ていた。
 私はいつものように窓辺のガジュマルの鉢にあいさつすると、ドアを開けた。

「いってきます」


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過去ログ
イモリ男?!ぎゃはは (nen)
2008-08-04 09:24:53
うちに秘めたる恋心を書かせたら上手いなぁ。
先日ふと、『せつない』とはどんな感じだったか?と思い、その気持ちを思い出すのにずいぶんかかりました。

ところで、この課題はなんだったのですか?
挑戦してみたい!!


次は「かたずけられない男」の逆襲 (ハヅキ)
2008-08-04 12:14:45
感想ありがとうございます。

 「イモリ男」は読者にわかりやすい関西・四国・中国フュージョン言語に苦労しました。
 属性は”無自覚なたらし”です。

 実は笹原室長の方が好みで、ハナちんは彼とつき合ったほうが幸せになれる気がするのですが。続編を書くとしたら、絶対、彼が主人公。

 実は、この短編は「一次創作小説同盟。」のtoresebuさんからいただいた課題なんです。
 toresebuさんはお若いだけあって、切ない・じれったい・甘酸っぱい小説の名手なのですが、ご自分ですでに書かれた小説のシチュエーションを提供してくださって、「ハヅキさんならどう料理するか見てみたいな」とにっこり(×ニヤリ)おっしゃったのでした。

 その課題とは・・・
SF要素なし、ファンタジー要素なしの現代劇限定。第三者からの情報で、片思いだった相手と両思いだったと判明。そして同窓会で再会・・・というもの。

 同窓会ははしょっていきなり再会させてしまい、しかも恋心の懊悩がイマイチ弱いのか「モノタリナイ」という評価をtoresebu先生からもらってしまった・・・。

 ぜひ、nenさまも挑戦してみてください!


えらい!・・・のか?そうか? (ハヅキ)
2008-08-04 16:30:36
 ”一次同盟。”のチャットで数人の方に感想をお聞きしたところ、お父さんの空騒ぎのせいで卒業式にでられなかったのに、お父さんを慰める余裕のあるハナちんはえらい、という意見が複数。
 これは意外でした。こういう反応は想像していなかった。平均年齢20歳の集団だったから、”若い人の方が親に厳しい”というバイアスがかかっているのかな?

 結びの一文は、同盟員の梧香月さんにいただいたアドヴァイスに従って書き直しました。
 香月ちゃん、ありがとう!


好きです。 (ケロンパ)
2008-08-06 22:44:00
うんっ!読み進めているうちに、かなりはまりました。

>どこらへんまで含まれるんですか
*ふんわりしているようで、鋭い突っ込みにドキリ。

>・・ハナさんが相変わらずやったんで、ほっとした。間におうたみたいやな
*ちょっと、ちょっと、殺し文句ですわ!京言葉でケロンパもこんな台詞を囁かれてみたい!

頂いたCDはスタレビ?と妄想したのは私だけでしょうか。
遠い想いが再び色付いていく様にすっかり魅了されてしまいました。

そうだなぁ、ケロンパとしては最後のシメを電話での会話で終らすのは勿体無いと感じました。何て言うか二人の独特のテンポがここだけ違う空気で覆われていて。もっと話がその先まで続くならこの違和感は感じなかったかもしれないです。が、ここで終ってしまったのでちょっと残念。四苦八苦して選んだ服を着て自転車を押す二人を見たかった。
書評的なことを言わねばと勇んで参りましたので、重箱の隅をつつくような指摘でございます。(言い掛かりともいう)
あぁ、どうしても恋愛要素を過剰に求めてしまうサガなのです。

そんな戯言は横に置いといて、すごく印象深いお話でした。緑川のひと言ひと言深かった。

>何日住んでもこんなとこ・・・俺のものにならん
*もう、この男は罪人です!
俺のもの…俺のもの…(連呼)
「女は物じゃないのよ!」と強がる女もやっぱりこんな風にモノにされたいと心の底で願っているのですわ。勝手に妄想重ねてしまいました。

…キリが無いのでここいらでおいとまを(汗)
気付いたら汗だくですわ。クーラーつけようっと。

あ、先日ご感想いただきました「Blue…」ホスト小説、コミック連載となりました。もちろんケロンパが描いている訳ではないですが。よろしかったら今度覗いてくださいね。南国恋愛漫画。小説とは一味違った雰囲気をお楽しみいただけたら嬉しいです。


終わらない2人 (ハヅキ)
2008-08-06 23:35:51
 ケロンパさま、感想ありがとうございます。
 いもり男の殺し文句に反応していただいて、うれしい。ホント、罪作りでしょー?
 緑川の京言葉のモデルは、屋久島で私の笛を聞いた山男ですのん。

 電話、そうなんです。浮いてるんですよ。でも、これ、課題なので外すわけにいかない。むしろ、いもり男とハナちんの世界の方が、toreさんの課題から外れてしまったようです。

 と、いうわけで、続きます。
 続編、できましたので、近日中にアップしますね!再び、ガラッと期待を裏切った雰囲気にしますので、お覚悟!

 「BLUE」のコミックみました。カッコいい~。美しい~。ジュンがどんな姿に描かれるか待ちきれません。
 100円中古CDは、もちろん、スタレビなのだった・・・ふふふ。









        
 
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